Vitesse Arnhem監督 Thomas Letsch〔インタビュー〕(2021/8/16)

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インタビュアー:Mr. Letsch、オランダはポゼッションサッカーが洗練された国として知られています。あなたはRB Salzburgでの経験もあり、切り替えの早いプレーを支持されていますね。それらの相性はどうなのでしょうか?
Thomas Letsch:オランダでは基盤は常にポゼッションにある。自分のアプローチは相手のポゼッションから始まる。優れた技術力を持つ選手で自分の考えるサッカーを実現し、それによって新しいアクセントを作りたい。それが自分にとっての大きな魅力だ。

インタビュアー:Vitesseでの最初のシーズン(20/21シーズン)は4位で、カップ戦の決勝に進みましたね。あなたのプレー哲学はどのように受け止められましたか?
Letsch:当初は懐疑的な意見もあった。でも、今はポジティブな反応が多い。自分たちのサッカーが機能し、結果が出るだけではなく、魅力的であることも分かってもらえたようだ。エールディビジ全体ではそれまでのシーズンからいくつかの変化があった。自分たちのように3バックに変更するチームが増えてきた。EUROではオランダ代表もこのシステムでプレーしていた。オランダの古典的な4-3-3はアンタッチャブルだと思われていたから、あれは小さな革命だった。

インタビュアー:プレー哲学という点ではSalzburgでの5年間はあなたをどれほど形作ってきたのでしょうか?
Letsch:もともとこういうサッカーを志向していたが、Salzburgではそれが極限まで強化された。その点ではRalf Rangnickの影響を強く受けた。彼は自分をSalzburgに連れてきて、このプレー哲学をユース部門に導入するタスクを与えてくれた。

インタビュアー:2009年にSonnenhof Großaspachを去ってから、2012年にSalzburgの監督に就任するまでの3年間サッカーから遠ざかっていましたね。その間はどのようなことをされていたのですか?
Letsch:教員になるために数学と体育を学び、その後はギムナジウムでフルタイムで教えていた。指導者としてはドイツ南部のアマチュアチームでパートタイムで働くだけだった。2009年にGroßaspachでレギオナルリーガ(4部)に昇格した後、リスボンのドイツ人学校で教える機会を得た。そこでは3年間働いた。文化も言葉も違う異国の地で本当に楽しい時間を過ごすことができた。人間的にも成長できたと思う。生徒のための様々なレクリエーション活動を除いてはほとんどサッカーと接することはなかった。そこでの契約を3年間延長した直後にRalf Rangnickから電話があり、FC Red Bull Salzburgのプロジェクトに携わらないかと誘われた。

インタビュアー:その時のことを思い出せますか?
Letsch:電話がかかってきた時は娘と海へ行く途中だった。

インタビュアー:オファーを受けるかどうか、ずいぶん悩んだのではないですか?
Letsch:リスボンの街はとても居心地が良かったが、このチャンスを逃すわけにはいかなかったし、逃したくなかった。Ralfはとても説得力があり、自分もすぐにSalzburgで何か特別なものが生まれると感じた。

インタビュアー:Rangnickは実際にどのようにしてあなたを見つけたのですか?
Letsch:彼は自分と同じバックナングの出身だ。そこで知り合った。過去には色々な接点があり、自分たち2人の歩んできた道で交わった人たちがいた。また、自分がポルトガルに行く前にGroßaspachでとても成功した時期もあった。

インタビュアー:Rangnickは当時のSalzburgのプロジェクトにどの程度関わっていたのでしょうか?
Letsch:最初は100%だ。彼がやってきて、こう言った。''我々はこうプレーしたいし、こうプレーするんだ''と。彼は自分のアイデアを実現するために、部下を情報を広げる人間として任命した。すると、あっという間に若い世代からプロチームまでの全てのチームがRalfの考え方に沿ってプレーするようになったんだ。もちろん、Roger SchmidtやAdi Hütter、Peter Zeidlerなどプロチームのそれぞれ監督は自分の考えを取り入れることができた。しかし、Ralfは常に彼らと密接に連絡を取り合い、枠組みを提供していた。

インタビュアー:彼の原則は何だったのでしょうか?
Letsch:Ralfの考え方は相手がボールを持った時が始まりであるというものだ。素早い切り替えでゴール前に入り込むために、積極的にボールを奪おうとした。当時は自分たちのビルドアップには関心が少なかった。仮に自分たちがボールを失ったとしても、ゲーゲンプレスで取り返せばいいだけだったから、彼にとってボールを失うことは大したことではなかった。70%のボール保持率で得点のチャンスがないよりは、リスキーなプレーをしてでもミスを受け入れる方が良い。

インタビュアー:このプロジェクトがどれほど大きなものになるか、またRangnickの考えが様々な監督に浸透していくことは初期の段階で想像できたのでしょうか?
Letsch:これは特別なことだと比較的早い段階で気付いた。ただ、これほどの規模になるとは想像もしていなかった。Adi Hütter、Marco Rose、Oliver Glasner、Jesse Marsch、Frank Kramer、Bo Svensson、そしてRalfの影響を受けたという意味ではJulian NagelsmannなどのRBとの交わりがあった監督がブンデスリーガで活躍していることは印象的なことだ。

インタビュアー:Rangnickと一緒に仕事をするにあたって、彼の明確なアイデアと全てを包み込むような存在感で時には疲れることもあったのではないですか?
Letsch:彼は関わる全ての人に非常に高いレベルの関与を求めるが、同時にそれを絶対的に体現している。最終的に大きなことを成し遂げるには、まさにこの信念と粘り強さが必要となる。

インタビュアー:あなたは2年間、FC Lieferingの監督を務めました。チームの成功と個人の才能の育成、どちらを重視しましたか?
Letsch:自分は自分の役割を''才能を育て、プロチームに近づける''とだけ定義している。当時、飛躍した選手たちのリストを見ると、とても誇らしい気持ちになる。それに、チームとしても4位、2位と大成功を収めた。

インタビュアー:当時のあなたのチームには現在プロとして成功している選手がかなりいましたね。その中で、これはいけると確信した選手は誰ですか?
Letsch:何人か思い当たる。Xaver Schlagerは当時すでにほぼ完成された選手だったし、若いうちから最大限の成果をあげようという大きな野心を持っていた。彼は練習でも試合でも、負けず嫌いなんだ。また、自分はずっとKonny Laimerの大ファンだった。昔はただ破壊力があるだけの選手と思われていたが、自分は当時からそれ以上のものを感じていた。Konnyに関しては、試合が始まった時には本当に相手を食おうとする犬を犬小屋から出しているような監督としての感覚になるんだ。Amadou Haidaraは練習生としてトレーニングに参加し、持ち前の積極性とボール奪取への貪欲さ、そしてサッカーを楽しむ力を兼ね備えていた。Patson Dakaのスピードと得点への意欲も並外れていた。

インタビュアー:Xaver Schlagerの野心についてお聞かせください。通常はオーストリア人は最初は少しゆっくりとしたペースで物事を進めると言われています。
Letsch:自分もザルツブルクに来た時にこの偏見に直面した。オーストリア人は満足することが早く、怠惰であると言われていた。この国での生活を終えて、それは見受けられなかった。ちゃんとしたメンタリティーを持った申し分ない選手はいる。それを見い出すことが重要だ。

インタビュアー:Lieferingの選手の中で後にプロとして成功した選手として一番驚いたのは誰ですか?
Letsch:Dmitri Skopintsevは当時LeipzigからLieferingに来たが、自分の下ではほとんどプレーしなかった。そうこうしているうちに、彼はDynamo Moscowのレギュラーになっていた。Robert Mudražijaも同様で、彼は現在HNK Rijekaでプレーしている。Stefan LainerのようにLieferingからSV Riedを経てSalzburg、そしてMönchengladbachへと飛躍した選手もいる。

インタビュアー:Salzburgはどうしてこれほど多くの優れた才能を見出し、育てることができるのでしょうか?
Letsch:スカウティングとネットワークが卓越している。また、契約した有望株の移籍後の面倒見やサポートが良いのもクラブの大きな強みだ。それに加え、評判の良さがある。若い選手たちは今日の多くのスター選手たちがSalzburgを経由してトップに躍り出たことを目の当たりにしている。

インタビュアー:その一人がSadio Manéです。当時、あなたは彼をどのように体験したのでしょうか?
Letsch:絶対的にポジティブな人間であった一方で、閉鎖的なところもあった。彼は同じフランス語を話す人に親近感を求めていた。サッカーでいえば、スピードとファーストコンタクトが特に印象に残っている。

インタビュアー:SalzburgからLeipzigへの数々の移籍を痛烈に批判したMartin Hintereggerとも仕事をしましたよね。Leipzigは選手の獲得によってSalzburgを破滅させるだろうと彼は推測していました。
Letsch:Martinは何でも正直に話す。彼は思ったことを口にする。だから自分は彼を評価しているし、そのようなことを恨んだりしない。ただ、彼はその内容について間違っていた。もし選手たちが(Leipzigではない)他のクラブに移籍していても、Salzburgは同じように弱体化していただろう。未来のトッププレイヤーがオーストリアに2年以上留まることはないだろう。

インタビュアー:Hintereggerはどのような人物でしたか?
Letsch:サッカー界には似たようなタイプの人がたくさんいる。自分はある選手が少し異なった傾向を示すと、それがこの上なく新鮮で、豊かなものになると思っている。Martinがそうだ。彼は飾り気がなく、釣りをするのが好きなんだ。

インタビュアー:Dayot Upamecanoの成長ぶりを親密に見守っていましたね。彼は16歳でFC ValenciennesからSalzburgに移籍し、当初はFC Lieferingであなたの下でプレーしていましたね。
Letsch:ピッチの外では彼はとても控えめで恥ずかしがり屋だった。言葉も発さないし、目線も下を向いていた。ところが、ピッチの上では彼は機械や野獣、テリアと化した。スピードやたくましさ、メンタリティーは16歳の時点ですでに顕著に現れていた。

インタビュアー:最初から彼に確信を持っていたのですか?
Letsch:もちろんだ。たとえ、その道が最終的にどこに繋がるかを正確に予測することはできないとしてもね。もちろん、彼は16歳という年齢でミスも犯したが、あの年齢ではそれもサッカーの一部だ。自分からすると、Liefering経由の道のりは彼にとってこの上なく完璧な道だった。

インタビュアー:ユース時代のUpamecanoの印象的な活躍を思い出せますか?
Letsch:2015年11月のUEFAユースリーグのBeşiktaş戦のことだった。アウェイで0-1と負けていたから、彼はチームのために2ndレグを一人で勝たせようとしていた。文字通りデュエルで相手に食らいつき、(最終スコア5-1の試合で)2-1とするゴールまで決めてくれた。このとき初めて、彼がどんな選手になれるのか、どんなメンタリティを持っているのかが分かった。あれは本当に感動的だった。

インタビュアー:Upamecanoは2017年1月にLeipzigに移籍しましたが、あなたはその半年後にSalzburgを去りましたね。なぜですか?
Letsch:Óscar Garcíaが去った後、自分は監督に就任するチャンスがあると思っていた。しかし、クラブはMarco Roseを選んだ。今思えば最悪の選択ではなかった。彼はトップクラスの監督で、今でも仲良くしている。でも、自分にとってはあれが他のことに挑戦してみようというサインだった。Salzburgでは素晴らしい時間を過ごしたが、その後にSalzburgを離れて新たな挑戦をしなければいけないと思った。

インタビュアー:ドイツ2部のErzgebirge Aueに移りましたね。カルチャーショックのようなものに違いなかったのではないでしょうか?
Letsch:間違いなくね。多くの観点から見ると、この2つは全く異なる世界だ。でも、こういった異なる経験をすること、自分のコンフォートゾーンを飛び出すことは大切だ。自分はSalzburgら一歩踏み出したことを後悔したことはない。たとえ、Aueでの一章が最も幸せなものではなかったとしてもね。

インタビュアー:あなたはわずか3試合の対戦で解任されました。
Letsch:振り返ってみると、感情的になりすぎて、新しい仕事への準備が不十分なまま決断してしまった。その後、異なる理由から事情が合わないことに双方がすぐに気付き、そのままでは成功することが非常に難しいことをすぐに理解した。

インタビュアー:どのような点がですか?
Letsch:正直なところ、誰の興味も引かない過去のことだ。

インタビュアー:すぐに解任されたことは意外でしたか?
Letsch:もちろんとても早い出来事ではあったが、意外ではなかった。事情には合うものと合わないものがある。その場合、長く待ち続けるよりも早めに終わらせた方が良い。

インタビュアー:その後、オーストリアに戻り、Austria Wienの監督になられましたね。
Letsch:Austriaで過ごした日々は個人的にはとても良い思い出だ。自分が任された当時はSalzburgとLASKに次ぐリーグ3位で、巻き返しの始まり段階にあった。Vesel DemakuやDominik Fitzといった若い選手たちは初出場を果たした。特にダービーでの2回の勝利はハイライトとしてずっと記憶に残っている。

インタビュアー:あなたが現在所属しているVitesse ArnhemはChelsea FCの才能ある選手たちのレンタル先として知られており、Mason Mountもここでプレー経験を積んだ時期がありました。この提携関係は具体的にどのように機能しているのでしょうか?
Letsch:公式な提携関係はなく、クラブ間でうまく連絡を取り合っているだけだ。もちろん、Mason Mountはその典型的な例だ。昨季はレンタルで加入した選手としてArmando Brojaもいた。彼は自分たちと一緒にプロでの第一歩を踏み出すことができ、この機会を上手く生かした。エールディビジはトップレベルの才能を持つ選手にとって、トップリーグの一角に入る前の良い中間ステップだ。Armando、そして当時のMasonも最初は苦労していたが、最後には十分に納得のいく結果を残し、全く異なるレベルでChelseaへと帰っていった。

インタビュアー:VitesseのオーナーであるValeriy OyfはRoman Abramovichと仲が良いとされています。彼はクラブにどの程度居合わせているのでしょうか?
Letsch:契約を結ぶ前に2度のビデオ通話でお互いを知ることができた。昨季終了後に初めて直接会った。残念ながら、それ以前はコロナの関係で難しかった。たとえ彼が現場にいる回数が少なくても、定期的なやりとりはしている。彼はいつもよく情報を集めている。